創価学会が政治の分野に進出したのは、昭和30年4月・5月に行われた統一地方選挙が始まりでした。このとき創価学会員53名が地方議員となりました。
翌31年7月に行われた参議院通常選挙で、創価学会は「王仏冥合(おうぶつみょうごう)」をかかげて6名の候補者を立て、そのうち3名が当選しました。

このとき、第二代戸田会長は、
「わしの力あるかぎりは、断じて政党などやらんぞ」(総合・昭和32年7月7日号)
といって、あくまでも政党を結成する意志がないことを表明していました。

池田大作も会長就任直後は、
「創価学会は衆議院には出ません。なぜかならば、あくまでも宗教団体ですから」(会長講演集1−86頁)
といっていましたが、昭和36年11月には、「王仏冥合」をスローガンとした「公明(こうめい)政治連盟」を発足し、昭和39年には「公明党」を結成して、突如、衆議院進出を決定しました。このとき池田は本部総会において、
「恩師戸田先生も時きたらば衆議院へ出よとのご遺訓(いくん)があったのであります」(聖教新聞 昭和39年5月5日付)
と、「恩師のご遺訓」なるものを持ち出して、自らの前言を翻(ひるがえ)したのです。
そして公明党は、次第に池田の私党(しとう)としての色彩を濃くし、変節(へんせつ)を繰り返しながら、池田を守るために政治権力にすり寄っていったのです。

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