創価学会第二項/創価仏法の「妙法観」と「本尊観」

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創価学会 創価仏法の妙法観と本尊観

そもそも、この表題の「創価仏法」なる用語は何なのでしょうか。
これは、いわゆる「52年路線」と呼ばれた当時、
◎創価仏法の原点は、戸田会長の「獄中の悟達(ごだつ)」にある。
などという、教義逸脱・謗法(ほうぼう)路線において、学会が自ら、自分たちの信仰を表現したものです。
当たり前のことですが、日蓮正宗には「日蓮大聖人の仏法」以外には何もありません。当時、創価学会は日蓮正宗の信徒団体でありながら、まるで別の存在であるがごときスタンスだったのです。すでにこの時点で、学会は日蓮大聖人の仏法ではありませんでした。
しかし現在、学会は日蓮正宗とは縁のない新興宗教団体でありますので、この「創価仏法」なる表現が、実にしっくりくる感じがします。昔から、その「妙法観」も「本尊観」も、日蓮正宗本来の姿とはかけ離れた異質なものだったのです。

創価学会の妙法観

創価学会の「信心の狂い」「異流儀化」は、すべて「壊れた妙法観」に起因するといっても過言ではありません。そしてこれを根源として本尊観が狂い、平気でニセ本尊を偽造販売するに至ったのです。
さらには、唯授一人血脈付法の御法主上人猊下をも足蹴にする悪逆非道も、やはり妙法観の狂いによって「法勝人劣の邪義」を立て、御本仏・日蓮大聖人まで「凡夫本仏」などと貶(おとし)める学会であれば、たやすいことであると思います。

■妙法=大宇宙の根本法則

池田大作が語る「妙法観」とは、例えば、
「妙法こそ、大宇宙を貫く根源の法であり、(中略)根本中の根本の法則である」(昭和62年 第7回未来会総会)
「日蓮大聖人は宇宙の根本法則を一幅の曼荼羅に御図顕なされた」(昭和56年 SGIの日記念勤行会)
「宇宙のことごとくの運行、現象を引きおこす根源の力として、妙法がある」(昭和56年 パナマ信心懇談会)
「この大宇宙のいっさいの運行の源泉、法則こそが南無妙法蓮華経なのである。その南無妙法蓮華経を具現化なされたのが日蓮大聖人であり、その顕された御当体が根本尊敬の御本尊なのである」(昭和56年 メキシコ信心懇談会)
「すなわち、その根本法を仏が一幅の『曼荼羅(まんだら)』とされた。それに南無し帰命(きみょう)することによって、大宇宙の外なる法則と、己心の内なる法則が完全に合致し、さらに人生、生活が、正しきリズムにのっとったものとなる」(『仏法と宇宙を語る』)
という感じです。
私(垢重丸)は入信して20年以上になりますが、その最初の頃から、「宇宙に遍満する法」だの何だの、そういう内容の指導を繰り返し聞かされた覚えがあります。こうした妙法観は、昔から現在に至るまで変わらぬ、創価仏法なるものの根源をなす思考です。
私が章の冒頭、総論で述べた「曇りガラスの向こうの御本尊様を拝している」ような違和感は、今にして思えば、こうした「ちょっと聞くと正しそうで、実はとんでもない邪義の妙法観」から生じたものだったのです。

■創価仏法の妙法観は「邪義」

大まかにまとめると、池田大作のいう妙法観とは、

「大宇宙の一切の運行や現象を引きおこし、あらゆる生命の働きを生じさせる根本の法則が『妙法』であり、その根本法則を日蓮大聖人が具現化し、一幅の『曼荼羅』と顕されたのが御本尊である。この御本尊に南無・帰命すれば、大宇宙のリズムと合致し、幸せになるのである」

というような内容になります。これの何が邪義・邪説なのか、今も昔も、学会員には理解できていません。
この「創価仏法流・妙法観」の問題は、「まず初めに法ありき」である点です。一見、日蓮大聖人に関連づけているようなフリをしつつ、実は基本的に御本仏を無視して、仏から遊離した形での「宇宙の根源法」として考えているのです。
これが、根本的に大きな間違いです。
「御本仏様」と「法」は、最初から一体であります。それを「人法体一(にんぽうたいいつ)」といいます。「文底下種・独一本門の南無妙法蓮華経」は、本地難思・境智冥合の法であると同時に、その全体が即ち仏身(法報応の三身)なのです。
「御本仏様の仏身を離れた宇宙法界に、妙法の実体がある」と考えることは大きな誤りであり、邪見です。御本仏・日蓮大聖人の御心にのみ南無妙法蓮華経は在(あ)るのであり、その御本仏の御内証(ごないしょう)を、「人法一箇」の上から顕されたのが御本尊なのであります。決して、大聖人様の己心を離れたところの根本法則なるものを図顕された、などと考えてはいけません。

■日蓮正宗本来の妙法観は「人法体一」

総本山第六十五世・日淳上人は、
「仏法に於(おい)ては法華経寿量品の文底の南無妙法蓮華経が肝心の要法であって、此(こ)の要法は日蓮大聖人の所有遊(あそ)ばされるところである」
(日淳上人全集981頁)
「題目を主として御本尊を忽(ゆる)がせにする者が多いのであります。(中略)元来かような考へは南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるからでありまして宇宙に遍満(へんまん)する妙法の理が題目であるとするからであります。此は大変な誤りで南無妙法蓮華経は仏身であります。即ち法報応(ほっぽうおう)三身具足(さんじんぐそく)の当体であらせられ報身中に具し玉(たま)ふのであります。妙法の理は天地の間にありましてもそれは理性(りしょう)であります。実際には仏の御智慧のうちにのみ厳然として具(そな)はり玉ふのであります。」(日淳上人全集982頁)
「久遠本有(くおんほんぬ)の妙法蓮華経は大聖人の具有(ぐゆう)し玉ふところであります。大聖人はその御境界を観心(かんじん)の本尊として建立し玉ふたのであります。くれぐれも此の報身を離れた妙法を以(もっ)て御本尊と考へてはならないのであります」(日淳上人全集1004頁)
等と、明確に御教示されています。
池田大作の唱える妙法観は、日蓮正宗本来の正しいそれと比べれば「まったく似て非なる邪説」となります。大聖人様の御内証を離れた「宇宙の根本法則」だの「宇宙に遍満する法」だのを求めても、そんなものは存在不明であり、実体がありません。
ましてや、「池田先生と呼吸を合わせるように唱題するんだ」などと指導するに至っては、それのどこが日蓮大聖人の仏法なのかと、学会員は違和感を感じないのかと、不思議でなりません(「先生と呼吸を合わせる唱題」というのは、私が学会時代に受けた迷指導です。破門のずっと以前からそんな調子でした)。
創価仏法で説く「宇宙の根源法」なるものは、日蓮大聖人の妙法ではありません。それをはっきりと認識しなければ、どこまでいっても邪見に堕(だ)します。創価学会は昔から、日蓮正宗の教義ではないものを学会員に教え込んでいたのです。

創価学会の本尊観

根本となる「妙法観」が上記のような有り様ですから、それによって「本尊観」も大きく変質し、根本的に狂いが生じてしまいます。それが52年路線における「本尊模刻事件」となり、破門後に「ニセ本尊を製造・販売する」という大謗法を平気でできる、まともな信心では考えられない「感覚」を育て上げたのかもしれません。

■幸福製造機

学会では昔から、「御本尊は幸福製造機である」などということを言っていました。そして御宗門においては、これをあくまで「広宣流布進展の過程における方便」ととらえ、あえて黙認しておられたのです。
この「幸福製造機」という言葉は、実に不遜(ふそん)極まりないものであり、御本尊を「日蓮が魂」とまで仰せになった大聖人様の御心を踏みにじりかねない、凡愚の浅はかさがそこにあります。学会の、御本尊に対する認識の崩れは、すでにこの時点から始まっていたのです。
幸福製造機であるということは、御本尊は「モノ」だということです。言い換えれば「打ち出の小槌(こづち)」みたいなものであり、我々に金銭財宝その他の利益(りやく)をもたらすありがたい曼荼羅、という感じでしょうか。
そもそもが創価学会の信心は現世利益を主とする「御利益信心」「乞食信心」が中心です。
よく学会の婦人部あたりが「こんなに頑張ってるのに、まだ功徳が出ない」みたいなことをしょっちゅう愚痴(ぐち)っています。本来、功徳とは「積功累徳(しゃっくるいとく)」であり、出るとか出すとかいうものではなく「積む」ものなのですが、こういう愚痴が出ること自体、やはり今でも「打ち出の小槌」感覚なのだと見て取れます。
しかし、総本山第二十六世・日寛上人が、
「亦復(またまた)当(まさ)に知るべし、若(も)し草木成仏の両義を暁(あきら)むれば、則(すなわ)ち今安置し奉る処(ところ)の御本尊の全体、本有無作(ほんぬむさ)の一念三千の生身(しょうしん)の御仏なり。謹んで文字及び木画(もくえ)と謂(おも)うこと勿(なか)れ云云」
(観心本尊抄文段)
と仰せのごとく、御本尊は「生身の御本仏・日蓮大聖人様の御当体」なのであります。それを学会のように「唯物本尊」扱いすることは、御本仏に対する冒涜(ぼうとく)であり、「摧尊入卑(さいそんにゅうひ=尊きをくだいて卑しきに入れる)」以外の何ものでもありません。

■御本尊は象徴である

ニセ本尊(第四項参照)の製造・販売以降、学会はさまざまな邪義・邪説を並べていますが、その一つが、「御本尊は仏としての実体ではなく、象徴である」というような狂った本尊観です。
つまり、「御本尊といっても、妙法の法理を象徴的に表しているに過ぎない。本体は自分自身の内にある。したがって、その自身に具わっている妙法十界互具の当体の上から、象徴である御本尊に向かって唱題することによって、自分の仏界を顕すことができる。これが『仏界涌現』である」ということです。ここでもやはり御本尊は「モノ」扱いで、我々の中にある仏界を涌現(ゆげん)するための道具として存在するに過ぎません。
御本仏・日蓮大聖人が、
「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(経王殿御返事)
「法華経の題目を以て本尊とすべし(乃至)釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄)
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(草木成仏口決)
等々とお示しのごとく、御本尊様が「象徴である」などという御指南はどこにもありません。御本仏の御当体を「象徴」などと貶(おとし)めることは、とんでもない邪義に他ならないのです。
また「仏界涌現」ということも、上記の象徴論からすると変な話になってきます。あくまでも衆生の妙法の仏界を本体とし、御本尊はそれを現すための象徴であり道具と考えているわけですから、本来あるべき「境智冥合(きょうちみょうごう)」とはまったく違う大謗法になってしまいます。
日蓮正宗の信心においては、御本尊即ち御本仏大聖人様の御当体であり、御本尊を正しく仏様と拝して、一心欲見仏の信心において「境智冥合させていただく」ことが成仏の肝要であります。
総本山第二十六世・日寛上人が、
「心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染(し)み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや」(法華取要抄文段)
と明確に御教示のごとく、御本尊様は「仏界」であり、私たち衆生は迷いの「九界(くかい)」なのです。その九界の我々が、仏界の御本尊を「仏様の御当体」と信じて南無妙法蓮華経と唱えるところに、仏界即九界、九界即仏界、十界互具となり、境智冥合となるのです。
学会では「仏界も十界互具(じっかいごぐ)なら我々も十界互具であり、どちらも仏界を有することに変わりはない」みたいなことを言っていますが、それは理上の話であります。もちろん、衆生が十界互具だからというのは当然のことですが、それは正しく御本尊を信じ、境智冥合させていただくところにのみ、我々の仏界を成(ひら=開)くことが叶うのです。
学会のごとく、御本尊を単なる「象徴」としか拝せない信心で「仏界を涌現する」などというのは、禅宗と同じで虚妄であります。

■本門戒壇の大御本尊を貶(おとし)める

池田大作・創価学会にとって最も邪魔なのは、実は御法主上人猊下よりも御本仏・日蓮大聖人であり、同時に「弘安二年十月十二日御図顕の、本門戒壇の大御本尊」です。
池田にとっては、自分が「ただ一人の法華経の行者である」とするためには、御本仏様が邪魔なのであり、またニセ本尊(第四項参照)製造・販売を正当化するためには、御法主上人猊下ただお一人による御本尊の書写・開眼の権能を否定し、さらに本門戒壇の大御本尊の御威光を忘れさせる必要があるのです。学会員がいつまでも、本門戒壇の大御本尊を渇仰恋慕(かつごうれんぼ)していたのでは、学会としては非常に都合が悪い。
そこでまず、平成4年頃に作成した「学会版勤行要典」では、二座の観念文を「一閻浮堤(いちえんぶだい)総与、三大秘法の大御本尊に南無し奉り、報恩感謝申し上げます」と改変し、「本門戒壇」の文字を削除しました。この狙いは、本門戒壇の大御本尊を恋慕する意識を徐々に薄めていくことでした。
また平成5年の5月3日、池田大作は、外道のカトリック教徒である上智大学教授の口を借りて、
「宗教の究極は、板曼荼羅(いたまんだら)ではなく、久遠元初の法である」
などと、大聖人様の御当体である本門戒壇の大御本尊を蔑(さげす)む暴言を吐き、前述の「妙法観」よろしく、法だ法だと騒いでいます。
さらに池田は、平成5年9月7日の幹部会の席上、
「『もし、一瞬の信心があれば、すなわち、この信心の一念に一念三千の本尊を具(そな)える』これは日寛上人、有名なところだ、本因妙抄(註;この御文は観心本尊抄文段であり、池田の間違い)。たとえば水のある池には、月がただちに映るようなものである。宗祖大聖人が、この御本尊もただ信心の二字におさまれり、と言われたのである。信心の二字の中にしか、本尊はないんです。本門戒壇・板御本尊、何だ、寛尊は『信心の中にしか本尊はない』。ただの物です、いちおうの、機械です。幸福製造機だもの。信心、大聖人の御書だ」
と、あろうことか本門戒壇の大御本尊を「ただの物だ」と罵(ののし)り、またここでも「幸福製造機」などと言っています。これが池田の本音であり、いかに学会が会員たちを欺(あざむ)き「自分たちは大御本尊を信じている」ようなポーズをとっていても、それはウソ・偽りです。

■御本尊はどれでも同じ

現在の学会員にとっては、本門戒壇の大御本尊も、かつて日蓮正宗よりお貸し下げいただいた御本尊も、さらには学会が勝手に製造・販売したニセ本尊も、「御本尊はどれでも同じ」なのでしょうか。だとしたら恐ろしい話です。
三大秘法の内、「本門の戒壇」には、「事の戒壇」と「義の戒壇」の立て分けがあります。「事の戒壇」とは言うまでもなく、唯一「本門戒壇の大御本尊様(総体)の住処」であり、御戒壇様以外のすべての御本尊御安置の所は「義の戒壇」です。
各家庭に御安置の御本尊はすべて「一機一縁の御本尊(別体)」であり、本門戒壇の大御本尊の分身散影(ふんじんさんよう)であるそれら御本尊の所住は「義の戒壇」であります。
日蓮正宗の信徒は、「義の戒壇の御本尊」たる各家庭の御本尊を通じて(窓口として)本門戒壇の大御本尊を拝んでいるのであり、功徳を積ませていただくのも利益(りやく)をいただくのも、すべて本門戒壇の大御本尊様からなのです。
学会員は昔から、自分の家の御本尊と本門戒壇の大御本尊を切り離して考え、自分の家の御本尊から功徳を頂戴(ちょうだい)しているように考えているフシがありましたが、それがそもそも間違いです。すべては御戒壇様なのです。
そして現在、日蓮正宗から破門された創価学会に籍を置き、御法主上人猊下や御宗門を誹謗中傷する立場にいる以上、「信心の血脈」は断絶してしまいます。自分の家の御本尊が学会製のニセ本尊でなくとも、それはもはや「事の戒壇に通ずる義の戒壇」ではなく、本門戒壇の大御本尊とは断絶しており、いくら拝んでも功徳・利益はありません。
卑近な例えで恐れ多いですが、家の電球のスイッチを入れても、そこに電気を流すはずの電線が切れてしまっていたら、その電球がキチンとした本物でも、絶対に光りません。本門戒壇の大御本尊から切り離された一機一縁の御本尊には、功徳も何もないのです。
ましてや、それが学会製のニセ本尊では最悪です。最初から「魔性の札(ふだ)」なのですから、真剣に拝めば拝むほど、災いを万里の外から招き寄せかねません(詳細は第4項にて)。
日蓮正宗の正しい信心に帰り、本門戒壇の大御本尊様に深く懺悔(さんげ)滅罪を祈らなければ、堕地獄は必定です。一日も早く信仰の寸心を改められ、創価学会の呪縛(じゅばく)から逃れられますよう、切に祈ります。

以上、創価学会の「妙法観」「本尊観」について、大まかではありますが検証してみました。こうした狂いが、52年路線における本尊模刻事件、さらには平成破門後の「ニセ本尊の製造・販売」につながっていったのです。

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正しい宗教と信仰

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第四章・既成仏教第五章・民間信仰第六章・神様信仰
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